TwtterのTLに「読書ができるだけの経済的時間的余裕は一世代で築けるものではない」という内容のツイートが流れてきた。これを読んだ僕は「はあ?」と思ってしまった。
本が貴重品で高価だった時代や、特権階級の子弟しか読み書きできない時代なら、確かに「読書ができる=経済的時間的余裕がある」だ。
しかし、現代日本に限っていえば、多くの本は一冊千円もしないし、識字率もほぼ100%。そんな状況下で「読書ができる=経済的時間的余裕がある」はどう考えてもおかしい。
高級百科事典が全巻そろっているとか、家に図書館があるとか、そういう環境のことを「読書ができる」といっているなら別だが、そうでないなら、「親が本を読んでないと子供も読みませんよ」は、富裕層から貧困層に向けた皮肉や嫌がらせの言葉にはなり得ない。
要は、経済的時間的余裕があるかないかとは関係なく、「親が何に興味を持っているか?」というだけの話だ。
親がひまなときにテレビを見ていたり、スマホでゲームをしていたりするのか、本を読んでいるのか、という違いが子供に影響しやすい。読書好きな親の子供は読書好きになりやすい。そういう意味で「親が本を読んでないと子供も読みませんよ」なのであって、そこに貧富の差は関係ないのではないか?
学力格差が経済格差と結びつけられやすいのはまだ理解できなくもないが、読書まで経済格差と結びつける人がいて、その人のツイートが(賛同や共感を集めて?)バーッと拡散されているのを見ると、うんざりさせられる。
何でもかんでも「経済的時間的余裕」と結びつける最近の風潮こそ「貧困」問題や「格差」問題の本質だろう。
もちろん、お金があれば、できることの選択肢が増えるのは確かだ。しかし、限られた選択肢の中から最良のものを選び、より良い道を歩んで行くことも可能であり、それが結果として豊かさをもたらすことも少なくない。
育児や教育でいえば、親はひまなときにテレビを見るのか、スマホでゲームをするのか、本を読むのかを選択できる。本を読むという選択肢を選んだ結果、そんな親の姿を見た子供が積極的に本を読むようになるかもしれない。あくまでも確率の問題で、親が本を読むからといって、子供が本を読むとは限らないが。
たったこれだけのことなのに、声の大きい人が「読書ができるだけの経済的時間的余裕は一世代で築けるものではない」と言ったら、それを真に受けて「うちはお金も時間も無いから、読書は無理だ」と諦めてしまう人が出てくる。「我が家には子供文学全集が全巻そろっているざますよ、オホホ」と庶民を見下す性悪富裕層よりもよほどたちが悪い。
お金が無くても工夫しながら生活をしている人たちを煽り立て、「貧困」問題をより深刻にしているのは、政治家や富裕層の搾取であるとは限らない。「●●は貧困だ」と“批判”している人たちこそ、人々に劣等感を植え付け、「貧困」意識をより強固なものにしているという事実を忘れてはならない。