子供時代の「優等生」を人生の劣等生に変える”小学校”という名の罠

「神童も大人になればただの人」といわれる。

幼少期に学業成績や運動能力、芸術方面で優れていた子供の多くは、成長するにつれて平均、もしくは平均よりも下になってしまう。

この現象について、Wikipediaには以下の説明がある。

もともと神童と称される者は、運動能力、学業成績などが同年代の者に比べて現時点で優れていることを意味し、持っている能力が特別に優れているとは限らない。要するに、能力が優れているというよりも、同年代の者よりも成熟が早いだけという場合がある。

実際にこの通りだと思う。

塾講師・家庭教師として多くの子供たちを指導してきた僕は、小学時代に「優等生」とされていた子供が中学以降にどんどん落ちぶれていくパターンを、これまでに何度も目にしてきた。その上で、Wikipediaの説明に別の見解を付け加えたいと思う。

小学時代に「神童」とまではいわなくても、「優等生」とされてきたのに落ちぶれる子供たちには共通点がある。彼らは小学時代、他の子供たちが苦労していることやできないでいることをサラッとこなし、そのことを大人から評価されてきたのだ。

たとえば、2桁以上の計算をパッと暗算した、47都道府県を数十分で全部暗記した、跳び箱8段を一発で飛べた、何となく書いた作文が表彰された、など。学校の先生や保護者はこれらを「できる」「優秀だ」と褒め称えるのだが、そこに落とし穴がある。

サラッとこなせることには、時間をかけて苦労してできるようになったという背景が無い。それを褒められると、子供は単純だから「自分は何でもすぐにできる」と勘違いする。小学校の学習内容は簡単すぎる上に薄っぺらいので、勘違いしたままでも何とかなってしまう。

しかし、中学生になって、「自分は何でもすぐにできる」わけではない現実を突きつけられる。

小学生のときのように感覚的にできることは少なくなり、論理的に積み上げていくことが求められる。当然、一つ一つのことに時間がかかる。

しかし、小学時代の「優等生」は、「自分は何でもすぐにできる」という思い込みが強すぎて、「できない」という現実を受け入れられない。60点や70点で先に進むことができない。否定されるのが怖くて、何もかもを先延ばしにする。そして、本当にできなくなる。

「自分はできる」に執着すると「できない」を受け入れられずに苦しむ
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ある意味、小学時代の「優等生」は小学校教育の被害者だといえる。

最近は特に「褒めて伸ばす」がブームだからか、小学校の先生はちょっと「できる」子供を褒めまくる。しかも、一般的に「やってはいけない」とされる褒め方をする。

「結果や能力を褒めてはいけない」といわれる。これは子供に対してはその通りだ。

もともとできることを褒められた子供たちは、できないことをできるようにするのではなく、できることばかりをやりたがる。「できる」といっても、感覚的に上手くいっているだけなので、より高度な段階に進むとできなくなる。しかし、小学校レベルだと、その高度な段階がそもそも存在しないので、中学受験のための進学塾にでも通わない限り、「できない」という壁にぶち当たることもない。

それでも、保護者が「学校では『できる』と言われているけれど、実際にはできていない」と判断できれば問題ないが、多くの場合、保護者も学校の先生と一緒になって「この子はできる」と評価するため、事態はどんどん悪化する。

結果として、小学時代の「優等生」は中学以降どんどんできなくなっていって、場合によっては人生の劣等生になってしまう。

小学時代に「優秀だ」と言われていた姉が中学で成績下位から抜け出せない一方で、小学時代に「割り算ができない」と言っていた弟が中学で成績上位に食い込んでいく、といった例も珍しくない。小学時代に「できない」ことをできるようにした経験は、中学以降の勉強などで大きなアドバンテージとなる。

小学校は子供を潰すためのトラップだと考えた方がいい。学校の先生が「この子は優秀です」と言っていても、親はそれを無視すべきだ。わざわざ子供を「できない」と貶める必要はないが、先生と一緒に「できる」「優秀だ」と褒め称えてはいけない。

むしろ、小学校で「できない」子供こそ将来は大きく伸びる可能性があると信じて、「できないなら、できるようにしようね」と声をかけるべきだろう。

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