味噌を塗ったパックご飯を食べながら「貧困」問題の本質を考える

先日、Zoomでの家庭教師指導が終わって時計を見たら、22時を過ぎていた。今から買い物に行くのは面倒だ――。というわけで、ローソンストア100で買ったパックご飯300gに、100円味噌を塗って食べたところ、懐かしい味がした。

僕が幼い頃、母はよく「味噌おにぎり」を作ってくれた。味噌おにぎりとは、白米ご飯をおにぎりの形に握り、味噌を塗っただけのもの。そんな素朴な食べ物が当時の僕は大好きだった。

おにぎりを作るとなると、案外手間がかかる。具を詰めて海苔を巻くのは面倒だ。ましてや、焼きおにぎりをつくるとなったら……。味噌おにぎりと焼きおにぎりは見た目が似ているものの、「焼く」という一手間が加わるからだ。そう考えると、焼きおにぎりは冷凍食品を買った方がいい。

さて、僕は小学五年まで母子家庭だった。母は働きながら僕を育てていて、食事を作るのも大変だったはずだ。そんなとき、手軽に作れる味噌おにぎりは重宝したのだろう。

この歳になって幼少期を思い出すに、我が家は決して裕福ではなかったし、母は時間的にも余裕が無かったようだ。しかし、母は自分が「貧しい」とは決して言わなかったし、僕にも「貧しい」と思わせないようにしていた。そのための工夫の一つが味噌おにぎりだったのかもしれない。お金もかからない。時間もかからない。その上、子供が喜ぶ――。「工夫さえすれば、不利な状況も何とかできる」という実例でもある。

最近は社会問題として「貧困」が注目されている。特に母子家庭の「貧困」が取り上げられることが多い。

確かに、母子家庭だと、経済的に困窮しがちだし、母親が子供と関われる時間的余裕も無くなりがちだ。特別な事情が無い限り、裕福になりにくいのは事実だろう。しかし、こうした状況が貧困に直結するかどうかといえば、僕は疑問に思っている。

近年、「相対的貧困」という言葉をしばしば耳にする。相対的貧困とは、その国や地域の水準の中で比較して、大多数よりも貧しい状態のことである。相対的貧困はあくまでも比較によって決められるものであり、比較さえしなければ、貧困かどうかの判断は当事者の主観に委ねられることになるだろう。

「最低限の衣食住さえあればよく、これらが十分に満たされている」という人なら、たとえ年収100万でも「自分は貧困だ」と思わない。逆に「あなたは貧困です」と言われれば、「余計なお世話だ!」と反発するはずだ。

最近声高に叫ばれている「貧困」問題の多くは、この相対的貧困をいうようだ。わざわざ自分と他人と比較して「自分は貧しい」という劣等感を膨らませ、工夫することすらせず、「国や社会が悪い」「富裕層が搾取している」などとわめき散らしている人たちが多い。

パックご飯と味噌があれば、味噌をご飯に塗っただけで食べられる。それなりに美味しいし、腹も膨れる。一食百数十円。一方、高級な寿司屋で食べたいと思えば、一回の食事で数万円は吹っ飛ぶ。

「貧困」を訴える人たちの中には、一回の食事をするだけなら百数十円でも十分なはずなのに、高級な寿司屋で食べたがり、「自分が高級な寿司屋で食べられないのは『貧困』問題だ!」と訴える人もいる。そもそも、なぜ高級な寿司屋で食べたいのか? 近所のスーパーで半額になったパック寿司ではダメなのか? スーパーのパック寿司なら、半額で買えば二百~三百円なのだが……。

僕は味噌を塗ったご飯を食べながら、「『貧困』とはいったい何なのか?」を考えた。

【注】ここでいう「寿司」はあくまでもたとえだ。「高級な寿司屋」を「塾」「私大受験」「旅行」「グルメ」「ブランド品」などに言いかえてもらうと、僕の言わんとしていることがわかってもらえるだろう。

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