自己責任は努力不足ではなく、選択の結果を自ら引き受けることでは?

僕は自己責任論者だ。

格差がどうこう、貧困がどうこうと騒いでいる人たちを見ると、「自己責任だろ?」と思うことも多い。

しかし、僕が考える「自己責任」は「努力不足」ではない。僕は基本的に努力や頑張りの類を否定するので、自他に対して「努力していないから失敗したんだ」とは考えない。

僕が「自己責任」の根拠とするのは「選択」だ。「自ら選んだ選択肢から生じた結果については、誰のせいにもせず、自分のこととして引き受けなさい」と考える。

もちろん、「努力する」「努力しない」の二択があって、「努力しない」を選んで悲惨な結果になったとすれば、「努力不足」といえないこともない。しかし、これらの二択で「努力しない」を選んで成功することもあり得る以上、「自己責任≠努力不足」だ。

もっといえば、選択の結果は運に左右されることもあるだろう。それでも、自分で選んだことに対して、自分で責任を取る姿勢が必要だと思っている。なぜなら、「選択」には自分の意思が必ず関わるからだ。自分で決めたことなのに、その責任を他人に押し付けるのは道理に合わない。

現在はコロナ禍で生活が苦しい人も少なくない。しかし、彼らの多くには、「いつかお金が必要になるかもしれない」と考えて貯金する選択肢があったはずだ。その選択肢を選ばず、「一時的な楽しさ」を満たすためにお金を使いまくった挙句、「コロナ禍で生活が苦しいのは国が悪い。社会が悪い」と騒ぐのは筋違いだろう。

「貧困家庭や地方在住だと十分な教育すら受けられず、選択肢が限られる」という意見もある。確かに、どうにもならない苦しい生活をしている人たちもいて、選択肢が限られるどころか、一択しかないような場合もあって、それなら自己責任とはいえない。

しかし、選択肢が限られるだけなら、その中から最良の選択肢を選んで、より良い道を歩むことができたはずだ。「『塾に通う』という選択肢が無かったから、学力が低かった」はみっともない言い訳だ。

学力を伸ばしたければ、学校を利用するなり、ネットを利用するなり、さまざまな選択肢がある。それらを選ばなかった、もしくは選択肢があることに気づけなかったのは、個人の問題に過ぎない。

自ら選んだ選択肢から生じた結果について自分で引き受ける気が無い人は、国が全て責任を持ってくれる代わりに、国に何もかもを決められて、個人としての自由がない世界が理想なのだろうか?

保護者がいつまでも責任を取ってくれる代わりに、自分でできることが制限される未成年であり続けたいのか?

僕は、たとえ失敗して悲惨なことになる可能性があるとしても、自分で責任を取る代わりに自由が認められる世界に生きていきたい。誰かが選んでくれた道を歩むだけの人生は嫌だし、いつまでも誰かに守ってもらいたいとも思わない。僕は自分の人生にも自己責任論を徹底する。

ただし、繰り返しになるが、僕にとっては「自己責任≠努力不足」であり「自己責任=選択の結果」だ。そういう意味で、現在の日本に蔓延する「自己責任論」には違和感を抱くし、他人の人生を「努力不足」と責め立てるつもりもない。

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