釣崎清隆写真集『THE LIVING』刊行記念写真展@新宿眼科画廊

釣崎清隆写真集『THE LIVING』刊行記念写真展@新宿眼科画廊

2023年2月6日、新宿眼科画廊で開催中の釣崎清隆写真集『THE LIVING』刊行記念写真展へ足を運んだ。もちろん『THE LIVING』を購入するためだ。

釣崎清隆さんは「死体写真家」として有名で、本人も「死体しか撮らない」という信念を公言している。しかし、実際には、さまざまな事情から、「死」と対照的な「生」を撮影することもあった。その「生」を集めた写真集が『THE LIVING』だ。死体写真集『THE DEAD』と対になるアンソロジーでもある。

釣崎さんは、撮影対象が撮影対象であるだけに誤解されやすいが、あくまでも「アート」として死体を撮影し続けてきた。「死」の美しさを写真に収めてきた。

「死が美しいとは不謹慎だ」という意見もあるだろう。しかし、「死」から目を背け、あまつさえ汚らわしいものとして忌避することの方がよほど不謹慎なのではないか?

「死」は、「生」の先に必ず待ち受けていて、誰にとっても避けられない一大イベントだ。そうである以上、生きるための営みを賛美する一方で、その営みの終焉を貶めることは、「生」をも冒涜しているように思われる。

「死」の写真を情報や主張を伝えるための道具として利用するのがジャーナリズムで、さらには発行部数を伸ばすために利用するのがイエロー・ジャーナリズムだ。

釣崎さんは、こうしたジャーナリズムとは異なるアートの視点から「死」と真摯に向き合ってきた写真家で、真っ直ぐな姿は尊敬に値するほどかっこいい。その独自の審美眼で「生」を見つめたのが『THE LIVING』だ。

収録された写真の一枚一枚には、日本で生活しているだけだと得られない気づきがある。

薬物中毒者の荒れ果てた部屋の壁に貼られた剥がれかけのポスターには、水着姿の女性の後ろ姿が写っている。銃を手にした強面の男たちが闊歩する通りには、さまざまな表情の子供たちが屯している。日本ではなかなかお目にかからない不穏な場面にも、我々の生活に通じるものが存在する。

釣崎清隆写真集『THE LIVING』刊行記念写真展@新宿眼科画廊

展覧会ならではだが、東日本大震災直後の宮城県を撮影した写真と、戦場と化したウクライナを撮影した写真が同じ空間に展示されていたのも印象深かった。破滅や暴力の中でも懸命に生きている人たちがいて、そこには悲しみや絶望だけでなく喜びや希望もある。このことを震災から学んだ日本人が、他国で現在進行中の出来事に無関心であってはいけない。

個人的に特に好きなのは、宗教を撮影した写真だ。非日常の儀式や祭りには、悲惨に彩られた日常が連なっているのかもしれない。貧困や格差が固定され、あちこちに「死」が転がっている中でも、人々は宗教を通して「生」を謳歌するのだろう。もちろん、これは僕の想像に過ぎない。しかし、想像が膨らむのは、釣崎さんが切り取った宗教のワンシーンが「生」と「死」の連続性を強く感じさせるからに他ならない。

釣崎清隆写真集『THE LIVING』刊行記念写真展@新宿眼科画廊

強い信念を胸にぶれずに活動してきた釣崎さんでも、時に「自分の写真は本当にアートなのか?そもそもアートとは何なのか?」と悩むことがあるそうだ。

「アート」の定義は人それぞれなので「これがアートだ」と言い切るのは難しいのだろうが、少なくとも僕は、常識に揺さぶりをかける気づきを与えてくれるものはアートだと考えている。

昨今は、アートを装ったプロパガンダも少なくない。それが悪いとは思わないし、嫌いなわけでもないのだが、薄気味悪さを感じてしまう。

釣崎さんの写真にはそういう不気味な思惑がない。そのため、じっと眺めていられるし、じっと眺めていると「そういうことなのか!」といろいろ気づかされる。釣崎さんの写真は確実にアートだと思うし、アートだからこそ僕は大好きだ。

僕が写真展にいたとき、展示中の写真を購入した人がいた。この人はもともと釣崎さんのファンだったわけではなく、会場で写真に一目惚れしたのだという。このように人の心を鷲掴みにする写真はやはりアートだ。

釣崎さんは「天然のアートを見つけに行く」と語る。そうして釣崎さんが日本に持ち帰った「美しいもの」を写真展で楽しみ、写真集で何度も味わい直すのは、とても贅沢で有意義なひとときだ。

タイトルとURLをコピーしました