「文武両道」という名のカルト!スポーツが勉強に優先するのはなぜ?

大人は子供に「文武両道」を求める。一般的に「文」は勉強で、「武」はスポーツとされる。

僕はずっと「『武』がスポーツ一択になりがちなのはなぜか?」と疑問に思ってきた。

日本では、スポーツが絶対的な「正義」とされることが多い。「スポーツができるなら、勉強がおろそかになっても仕方ない」という風潮もある。ブラック部活やスポーツ推薦などの問題の根底にも「スポーツ信仰」があるのは明らかだ。

しかし、スポーツはあくまでも娯楽の一種である。プロのスポーツ選手になるなどの特別な事情がない限り、スマホゲームをしたり、YouTubeを視聴したり、マンガを読んだりすることと、価値的には大差ないはずだ。

それなのになぜ、ゲームを長時間することは「ゲーム依存」と批判される一方で、運動部の長時間に及ぶ練習は美談とされるのか?

YouTubeを2、3時間見ていると「時間の無駄」と言われるのに、部活の練習試合で丸一日潰れることを誰も批判しないのはなぜか?

僕はスポーツに他の娯楽や趣味以上の価値を見出していない。だから、もし自分の子供がいれば、子供に対して「文は武に優先する」と言うだろう。「文武両道」を謳っている学校は進学先の候補から真っ先に外す。

子供がどんな屁理屈をこねようとも、「成績が悪ければ、部活も、趣味としてのスポーツもやめなさい」を徹底する。僕が通っていた中学の野球部は、成績が悪い生徒は部活の参加が禁じられていた。家庭の教育方針として、この野球部を見習いたい。

子供に散々スポーツをさせておいて、疲れ切った子供を「どうして勉強しないんだ?」と怒るのはナンセンスだ。それなら初めからスポーツをさせなければいい。スポーツと勉強を天秤にかけること自体が間違っている。

そもそも日本では、なぜスポーツばかりが特別扱いされるのか?

日本の就活では、「体育会系」が採用されやすく、運動部に所属していたことがPR材料となる。体育会系の学生が上下関係を尊重し、過酷な労働環境にも耐えてくれるから、企業のお偉いさんたちのお眼鏡にかなっているといわれる。

そうであるならば、企業が求めるのは、自ら意欲的に行動する新人や斬新なアイデアで皆をあっと言わせる新人ではなく、文句を言わずに働いてくれる奴隷なのだ。奴隷ならば、ご主人様に反抗せず、かつ体が丈夫な方がありがたい。いちいち上司に文句を言って、すぐに体調を崩す軟弱者は要らない。

富国強兵や殖産興業がスローガンだった時代なら、兵士や工場労働者を確保するための教育として、スポーツが利用されるのもわからないでもない。しかし、徴兵制がなく、多様な働き方が求められる時代に、戦前どころか、明治維新の遺物のようなスポーツ信仰がはびこっている日本が衰退の一途をたどるのは当然だ。

多くの日本人は「感動」を求めている。カルトに扇動されやすい国民だ、ともいえる。そういう意味で、スポーツ信仰はカルト大好きな国民の感性に合致する。黙々とスマホゲームをしている姿や、動画を見ながらゲラゲラ笑っている姿では、「感動」にならない。「感動」は汗と涙を流しながらもがき苦しむ姿からしか生まれない。

勉強とスポーツを両立するため、子供はもがき苦しむ。そんな子供の姿を目の当たりにした親は「文武両道の経験は子供の将来に役立つ」と考えるのだろうが、これではカルト宗教にハマった親と何も変わらない。「文武両道」は、カルト宗教のようなわかりやすさが無いだけ、余計にたちが悪い。

それでも「文武両道がすばらしい」と言うのなら、僕は「勝手にどうぞ」と思う。しかし、スポーツに価値を見出していない僕のような人まで巻き込まないでもらいたい。

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