整数論の難問「ABC予想」の証明に関するニュースから数学を考える

2017年12月16日、数学・整数論の超難問「ABC予想」の証明に関する論文が、一流の国際的な数学誌と評価される『PRIMS』に掲載される見通しとなった、というニュースが話題となりました。

論文執筆者は、京都大数理解析研究所の望月新一教授(48)。望月教授は、2012年8月に論文を自身のホームページ上で公開していましたが、その正しさを確認する「査読」に約5年かかりました。望月教授の論文はそれだけ独創的で、数学の天才たちでさえ、理解するのに多大な時間が必要だったということですね。

このニュースを読んだとき、僕は、「やっぱり数学っておもしろいな」と思いました。そう思った理由について記したいと思います。

数学は日常生活で役に立っている

家庭教師先で数学の指導をしていると、生徒はしばしば「数学がおもしろくない!」と言います。理由を聞いてみると、「日常生活で役に立たないから」というのが多いんですよ。もっとも、そんなことを言う生徒に対して、僕は「数学は日常生活で役に立っている」と話した上で、「『数学は役に立たない』と言っている君の方が社会の役に立っていない」と暴言をぶちかますわけです(笑)

実際、テレビもパソコンもスマホも、さらにいえば、普段使っている家電製品や交通機関なども、数学が無ければ誕生しませんでした。僕たちの便利で豊かな生活は数学の恩恵によって成り立っています。

一方で、実用性だけから数学の勉強を意義付けすることに僕は抵抗があります。というのも、数学は、実用性から離れたところでこそ、真価を発揮すると思っているからです。

数学は自然現象を語るための世界共通語

国語や英語が得意で数学が苦手という生徒たちがいます。彼らに対して、僕は「数学も語学だ」と言います。

数学は自然現象を語るための世界共通語です。たとえば、物理の力学分野で扱う運動方程式。これは、質量を表すkg、長さを表すm、時間を表すs(秒)によって加速度や力を定義し数式化したものです。運動方程式を用いれば、自然界で起こっている物体の動きを説明したり、未来に起こり得る現象を予想したりできます。そして、運動方程式による証明や予想は、どこの国に行っても通用するんですね。

数学をこのように捉えると、ワクワクしませんか?

数学は人類が“神”に近づくための手段

もっといえば、数学は、人類が“神”に近づくための手段でもあります。昔の人々は、人類や世界、文化などの誕生について、「創世神話」という形で解釈し語り継いできました。キリスト教は、唯一神ヤハウェが7日間かけて天地を創造したといいます。日本の記紀神話では、イザナギとイザナミが「国産み」を行なったとされます。こうした人格神が織りなすストーリーは魅力的ですが、「そもそも“神”って何?」という根本的な疑問には答えられないんですよ。

一方、数学的な理論の積み重ねによってビッグバン理論が誕生し、宇宙誕生の根本原理、すなわち“神”に迫る糸口を人類は発見しました。もっとも、ビッグバン理論では「宇宙は『無』の状態から誕生した」といわれますが、無から有が生まれる仕組みは今も謎のままです。この謎を数学的に解明できれば、人類は“第二の宇宙”“第三の宇宙”を作れるようになるかもしれません。そうすれば、人類は“神”そのものになってしまいますね。

うさんくさい話が続きましたが、数学にはこのようなロマンがあると僕は思っています。

はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。言葉は神と共にあった。万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。

これは、『新約聖書』「ヨハネの福音書」の一節ですが、ここでいう「言葉」とは数学のことだったのではないでしょうか?

数学の「わからない」を楽しむ

いくら僕が数学のロマンを語ったところで、多くの生徒たちの数学嫌いは解消されません。というのも、彼らは目の前の試験に追い立てられ、「わからない」「できない」にじっくり取り組む余裕がないからです。

僕自身、高校時代は数学がさっぱりでした。とにかく「わからない」「できない」ので、定期試験は赤点寸前、模擬試験でも偏差値40台ならマシな方でした。数学の試験を受けているときは、「数学なんて無ければいいのに」と何度思ったことか……(笑)

そんな僕でしたが、数学を嫌いになることはありませんでした。英語や理科は大っ嫌いになった一方で、数学だけは「わからないしできないけれども嫌いではない」という状態でした。数学が役立つこと、数学にはロマンがあること、を漠然と感じていたんでしょうね。倫理の時間に、「万物の根源は数である」というピタゴラスの思想にチラッと触れた影響もあったのかもしれません。

浪人時代は勉強したので、何となく数学ができるようになりました。「できる」といっても、単に公式に当てはめて問題を解いていただけで、本当の意味での「できる」からは程遠いものでした。しかし、数学に対する興味はそのまま続き、時々数学関係の本を読んだりして、「やっぱり数学はわからない」と思いながらも、その「わからない」を楽しむようになりました。

そもそも、勉強の意義は「わからない」を追求することにあって、その過程が楽しいと僕は思います。数学は、勉強の本質を僕に気付かせてくれたんですね。

対話や思考のきっかけとなり得る数学

やや話は飛躍しますが、最近は、世界全体が「わかりやすさ」ばかりを追求し、その弊害が顕著になっているように思います。アメリカと北朝鮮はにらみ合い、中東情勢はIS崩壊後も混乱が続き、国内にもきな臭い雰囲気が漂っています。

その背景にあるのは、「わからない」人々と話し合おうとせず、「わからない」理由を考えようとしない風潮ではないでしょうか?科学が進歩して世界中が豊かになっていく一方で、安楽さや便利さに埋没した人々は対話や思考を放棄し、目先の利益ばかりを追求しているのが「現代」という時代ではないでしょうか?

その先にあるのは、恐怖に囚われた人々が「わからない」を駆逐するために争う“野蛮”だと思います。幾度となく悲劇を繰り返し、啓蒙の時代を経て、「平和」を追求してきた人類が、再び暗黒の時代に戻ろうとしているのだとしたら、とても悲しいことです。

一方で、数学の世界では、何年もかけて天才たちが「わからない」を追求し、一つの結論にたどり着いたんですね。政治的・経済的な事情は関係なく、ただひたすら、真理を求めて対話と思考を重ねたのでしょう。この崇高な営みのきっかけを作ったのが望月教授でした。そういう意味で、望月教授の功績は日本の誇りです。

混沌とした時代においても対話や思考のきっかけとなり得るのが数学です。このこともまた、僕が「数学はおもしろい」と思う理由の一つです。

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