最近、発達障害に関する議論で「発達障害者は、できるけれど疲れることが多い」という話をよく見聞きする。
どこかの学者先生が「発達障害では『できる』と『できない』の間に『できるけれど疲れる』がたくさんある」と言っていたので、それが広がったのかもしれない。
言いたいことはわかる。しかし、僕は「だから何?」と思ってしまう。
できるけれど疲れることをどうしたいかは、最終的には本人次第だ。できなければ困るなら、練習して、疲れないでできるようにするべきだろう。できなくても困らないなら、無理をせずにやらなければよいだけだ。これは発達障害者に限らず、いわゆる「健常者」でも変わらない。
それなのに、わざわざ「できるけれど疲れる」を強調するのはなぜか?
最近の風潮だと、「できるけれど疲れることはやらなくてよい」という流れのように思われる。やらないための言い訳として、「できるけれど疲れる」と主張しているように見える。
もしくは、「自分にはできるけれど疲れることがあるから、周囲の人たちはサポートしろ!」と要求したいのか?
もちろん、チームで仕事をしているなら、役割分担によってサポート体制を構築し、できるけれど疲れることを他の誰かにお願いするのはありだ。むしろ、そうした方が効率的だろう。
一方で、自分でできなければ意味のないこと、たとえば受験のようなこととならば、できるけれど疲れることを周囲がサポートするにも限界がある。入試本番で問題を解くのは自分しかいない。だから、やるかやらないかの二択になる。どちらを選択したかの結果を自ら引き受ければよいだけの話だ。
あるWeb記事で、発達障害のある30代男性が、できるけれどものすごく疲れる状況を3つ挙げていた。その3つは以下の通り。
- 自由度が高すぎる状況
- 利害関係者に仕事を依頼しなければならない状況
- 正解のわからない中で進めなければならない状況
これを読んだ僕が思ったのは「これらの3つの状況は、発達障害がなくても、ほとんどの人はものすごく疲れるのでは?」だった。誰もがものすごく疲れるから、他のメンバーは引き受けなかったのだし、管理職に回ってきたのではないのか?
それなのに、いちいち「発達障害だから」という枕詞を付けないといけないのはなぜか?
「発達障害だから」と言わないと、誰も手助けしてくれない職場なのか?
それなら、これは発達障害がどうこうの問題ではなく、職場がブラックであることが問題なのでは?
このWeb記事を書いた男性は「本人がしんどいと感じている部分をフォローしていただきたい」と締め括っていたが、これはチームで仕事をするなら当たり前だ。その当たり前が機能していないことを発達障害の問題にすり替えているのにモヤモヤさせられた。
もっとも、このすり替えは、Web記事の事例に限った話ではなさそうだ。「発達障害者は、できるけれど疲れることが多い」と強調されるのは、日本全体がギスギスしている証なのかもしれない。何でもかんでも「努力」「頑張り」で片づけられる社会だから、「できるなら、疲れてでもやれ」で一蹴され、やらなくてもよいことをやらされて苦しんでいる人たちがいるのだろう。発達障害者に限らず。
一方で、「できるけれど疲れる」をやらない言い訳にしたり、「やりたくないからサポートしろ!」という要求につながったりする場面も少なくなさそうだが……。
「できるけれど疲れる」が発達障害と結びつけられて強調される風潮に薄気味悪さを感じる。