先日、TOCANA配給映画『PITY ある不幸な男』を鑑賞した。
映画の主人公は弁護士の中年男性。10代の息子と愛犬とともに、何不自由ない生活を送っている。彼の妻は不慮の事故で昏睡状態に陥り、入院中だ。そのため、周囲の人々は主人公を気にかけて親切にする。隣人は毎朝手作りケーキを差し入れ、クリーニング屋は割引をし……。そんな同情を心の支えにする主人公だったが、奇跡的に妻は意識を取り戻して――。
ジャンルはサイコスリラー。主人公が徐々に狂っていく、というよりも、内に秘めた狂気が徐々に明らかになっていく過程が丁寧に描写される。ラスト30分以外は淡々とストーリーが展開するが、物静かな展開の中で”歯車の軋み”とでもいうべきシーンが挿入されていく。息子のピアノへの細工、愛犬に対する仕打ち、病院での奇妙な行動――。ところどころで「えっ?」と思わされ、その直後に背筋に冷たいものが走る。
主人公は、不幸な境遇にいるからこそ得られる同情に依存する。そして、不幸が去って同情を得られないとなると、自ら「不幸」を演出し始める。表情に乏しく、感情の起伏も少なく、一見すると紳士的な主人公だが、彼の内には屈折した感情が常にくすぶっている。それが徐々に他人を巻き込んでいく。
主人公のような人間は現実世界にも実在する。彼らは、誰が見ても口をそろえて「狂人だ」と評価する人間よりも狡猾でなかなか尻尾を出さないから、周囲にもその本性は気づかれない。しかし、何らかの理由で嘘が破綻したとき、彼らは歪んだ欲望を何が何でも満たそうとして暴走する。「悲劇のヒロイン」が「悲劇をもたらす者」へと変貌するのだ。
「現実世界に実在する」というと他人事だが、自分の中にも主人公と通じるものがあることにふと思い至る。何もかもが上手くいかなくなったとき、誰かと争っているとき……。
自分が一方的な被害者であるかのように振る舞い、他者からの同情を得ようと躍起になったことはなかっただろうか?
不幸から解放された後、それまでの同情が失われて、がっかりしなかっただろうか?
映画を鑑賞した後、自分の過去を振り返って、再び背筋に冷たいものが走る。映画の余韻によって自らの醜い部分がじわじわとあぶり出されていくが、それを不快に感じるか、「自分はおかしくない。大丈夫」と目を背けるか――。
監督インタビューにもある通り、『PITY ある不幸な男』は音楽への拘りが見られる。音楽によって主人公を取り巻く状況と彼の心境の「矛盾」が表現され、映画が「オペラを思わせる作品」となっている。一方で僕は、聴覚的な部分だけでなく、視覚的な部分にも魅了された。海の見える家、真昼のビーチなど美しい風景の数々もまた、主人公の狂気を引き立てる役割を担う。「矛盾」が狂気や恐怖を美しくも不気味に見せてくれるのだ。
後味の悪い映画ではあるが、人間の本質的な”闇”を覗いてみたい人には是非ともおすすめしたい。